セ ピ ア の 記 憶


 小さな小さな隠れ小屋。
 カノンはいつもそこで留守番をしていた。
 いってらっしゃい、とサガを見送り、ふうとため息一つ。
 しかしすぐにハッとして、手のひらで口許を覆った。
 ため息つくと倖せは逃げる、という。
 すぐ吸い込んでも駄目だろうか。
 くるくる、そんなことを考えて、体の向きを反転。
 サガが出掛けた。唯それだけ。
 それでも小屋の中はシン…と静まり返った空気に包み込まれていた。
 カノンはきゅっと唇を噛み締めた。

 大丈夫。哀しくなんてない。辛いとも思わない。
 オレはかわいそうな子なんかじゃない!

 一体誰に向けて言っているのだろう。それはカノンにもわからなかった。

 心の中で一頻り叫び、扉の前にずるずると座り込む。
 冷たい床を見つめていると、視界がじんわり、滲んだ。

「ふっ……ぇッ、ううっ…」

 サガが帰って来る頃にはちゃんとする。いつもの自分に戻る。
 だから今だけは ――
 誰に聞かれるワケでもないのに、声を押し殺してカノンは泣いた。
 泣いて泣いて、その後は、涙を拭って、立ち上がろう。そうしてまたいつもの日常に戻ろう。
 そう思っていた。
 しかし突如後方からバタンと大きな音が、カノンの耳に届く。
 扉が開け放たれた音だった。
 カノンはびくりと肩を震わせ、恐る恐る後ろを振り向いた。
 すると其処には
「…っ、カノン!」
 息を切らしてこちらを見ているサガが居た。
 カノンは目を瞠る。
 紺碧の眸から自然と、新たな涙が零れ、カノンの頬を濡らした。

「サ、ガ?…どうしたのだ?」

 泣いていたことも忘れ、問う。

「忘れ物、を…したのだ」
「忘れ物?」

 サガは随分途切れ途切れに答えた。
 珍しいな、と内心驚きつつ、カノンは座り込んだまま移動し、
 サガが通りやすいよう道を開けてやる。
 しかしサガは、カノンに歩み寄ってきた。

「…サガ?」

 きょとり、とカノンはサガを見上げた。
 逆光でカノンからサガの表情はうかがえない。
 ついと伸びて来た手が、カノンの頬を包み込む。

「カノン…」

 囁くように、呼ばれて

「いってきます」

「………」

 随分間を置いて、ようやくカノンは、気付いた。
 先程サガを見送ったとき、サガは一度も自分を振り返らなかった、と。
 止まっていた涙が再び溢れ出す。

「サガ、サガっ…い、いちいち戻ってきて、遅刻するぞ」
「ああ、そうかもしれない」

 だが、忘れ物をしてしまったのだから仕方あるまい。
 サガは困ったように微笑みながら言ったが、心底困っているようには見えなかった。
 どちらかというと、カノンが泣き止まないことに困っているような微笑みだった。

「カノン」

 サガは、カノンの髪を梳き、目許にくちづけ、言葉を重ねる。

「なるべく早く帰ってくるから」
「…うん」
「待ってて」
「うんっ」

 最後にカノンの額にそっとくちづけて、サガは今度こそ、十二宮に向かった。


*  *  *  *  *


 大丈夫。哀しくなんてない。辛いとも思わない。
 今度は強がりなんかじゃなかった。

 すこし淋しくても平気だ
 サガがオレのところに帰ってきてくれるのだから
 必ず笑顔で迎えてあげる


「いってらっしゃい、兄さん」



end



ほのぼの書きたかったのです。
きっとサガが戻ってきたのは、後にも先にもこのときだけ。
それでもカノンは、いえ、サガもずっと覚えている記憶、と言った感じです。


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