「かーい」
 授業が終わりを告げ、化学室に向かう。いつの間にか日常化した時間。いつものように喧しく響く声。
 そいつは、オレの姿を見つけると、まるで仔犬が飼い主でも見つけた時のように、嬉そうに駆け寄ってきた。
「…しがみ付くな、学」
「べつに良いじゃん。早く化学室行こうぜ」
 腕に抱きつくと、学は化学室までオレを引き摺りだした。
 何がそんなに楽しいのか今日あった出来事を嬉そうにオレに聞かせる。
 話している間ころころと忙しなく変化する表情。
 笑って、怒って、泣いて…そしてまた笑う。
「学はいつも楽しそうだな」
「うん!楽しいよ。…芥は毎日楽しくないのか?」
 不意にオレの口をついた科白に、学はどこか淋しそうに問い掛けてきた。
「日々は、時間は、確かに過ぎて行くが…それを楽しいと思ったことは一度も無い」
 学の問い掛けに少しの間、思案してみる。結果、口から出てきたのはこんなにもつまらない返答。
 通り過ぎるものや見えなくなっていくものに執着出来ない。何も感じることが出来ない。
 オレには、学と同じ感覚は、たとえ頭で理解できても心で感じることは出来ない。…きっとこの先もずっと……。
 何故か少し胸が軋んだ気がした。
「…ったく…芥はしょーがねぇなぁ」
 オレの返答はお気に召さないらしく学は不服そうに眉を顰めた。
「っていうかさ。何も感じないワケないだろ?」
 そしてあけらかんと言い放つ。学の言葉に心を覆っていた暗雲が一時だけ姿を消した。
「芥は自分で気付いてないだけって。本当は芥が思ってるよりずっとずっと色んなコト感じてると思うぜ」
「……何故そう思う?」
「そーんなの当たり前だろ!芥の傍にはこの学ちゃんが居るんだぜ!楽しくないなんて在りえないだろ!」
 人懐こい笑顔を、不敵な笑み (とてもそうは見えんが本人談) に変えると、学は先程よりも強い口調で言い切った。
 普段なら ‘根拠も無しに’ と、一蹴してやるだろうその言葉。
 何故かこの時は、自信に満ち溢れた瞳でオレを見上げてくる学の顔を、驚いたように凝視するしか出来なかった。
「そうなのか?」
「そうだよ、その内楽しくなるって」
 言いたいことを言い終え、さ、化学室行こうぜ、と学はオレの手を引いた。その手をパシッと振り解く。学は驚いたようにオレの顔を見上げた。
「……いつ来るかわからないその日までお前はオレの傍に居るというのか?」
 嘘だな、と思った。信じたいのに信じられない。後に絶望を味わうのはごめんだった。わざと学を突き放そうとした。
「…芥が望むならずっと傍にいる」
 しかし返ってきたのは力強い肯定の言葉。
「信じられないって言うんなら約束する!」
 そして差し出された指先。何だ、と視線で問い掛けると、学はニコッと笑って ‘ゆびきり’ と、短く答えた。
 指先をじっと見つめる。こんなもので何が保証されると言うのか。
「こら、芥。早くしろよなー」
 オレが渋っていると焦れた学が無理やりに指を絡めとった。ぶんぶんと大きく手を振り、指先が離れる。
「約束な」
 生まれて初めて交わした約束はきちんとまもられるだろうか……。
 先のことはわからない。しかし学の言葉に小さく頷く自分が確かに其処にいた。



END



芥さんより学ちゃんのほうが精神的に大分強いと思います。

2005.07.25


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