これは俺とシャニが今よりもっと幼かった頃の話。
 深く、深く、心を抉った出逢い。


 その日は外出許可をもぎ取って、シャニと共に檻の外へ出掛けた。
 雲ひとつない真っ青な空を仰ぎ 他愛のない会話をしながら 人通りの少ない路地を歩く。

 「あ…」

 ふいにシャニがきょとん、とした表情になり、その場に立ち止まった。
 不思議に思った俺はシャニと同じように歩みを止める。
 シャニはきょろきょろ、と辺りを見渡して  「居たっ」 と、小さく呟き、道の脇の溝に思いきり手を突っ込んだ。
 ギョッとしてシャニの許へ駆けつける。

 「痛ッ!大人しくしてよ。うざいなぁ」

 誰に向かって言っているのか解らない科白を発しシャニは眉を顰める。
 暫くして ―― 溝の中から泥でグチャグチャになったシャニの腕と小さなかたまりが現れた。

 「みゃー」
 「猫…?」
 「うん、怪我してる…」

 か細い鳴き声が聞こえてその塊が仔猫だと判った。
 大事そうに子猫を抱いたままシャニは何処かに行こうとする。
 げっ…すっげー嫌な予感。

 「おい!まさかそいつを連れて帰るんじゃないだろうな?」
 「…そうだけど」

 駄目なの?と言いたそうな表情で首を傾げるシャニに、俺は気のせいではない頭痛を感じた。


 ◆ ◇ ◆


 結局 「駄目だ」 とも 「良いぜ」 とも言えず終いだ。
 檻に帰ってきてシャニと仔猫をシャワー室に押し込んだ。
 中からは楽しそうにはしゃぐ声が時折り聞こえてくる。
 シャニが猫好きだったとはな。
 しかしどうすんだよ…ったく ――
 確実に何も考えていないだろうシャニの代わりに俺は頭を抱えた。

 「オルガぁ…?」

 ひょこ、とシャワー室から出てきたシャニはもう溝くさくなかった。
 ふわふわと石鹸の香りがする。
 火照った頬に軽く口吻けて、濡れたままの髪をタオルで拭いてやった。
 ふいに視線を落せば、腕の中にいる小さな物体が、シャニのシャツに爪を引っ掛け、胸をよじ登っている。
 泥まみれだったそれは、真っ白な毛並みを持つ、とても綺麗な仔猫だった。

 「どうすんだ。これ?」
 「これ、とか言わないでよ。物じゃない」

 最大にため息をつきながらのん気に顔を洗っている仔猫に向かってピッと指を差す。
 俺の態度を見て、シャニがムッと頬を膨らませた。

 「んー…怪我が治るまでここにいればいいじゃん?」

 仔猫を手当てし終わり、救急箱を片付けると、シャニは少しだけ空を眺めて、そう言った。

 「…簡単に言ってくれるぜ。誰かに見つかったらどうする気だ?
  バレるのも時間の問題だな」

 鼻で嘲笑って突き放す様に言い放つ。
 シャニの表情が泣き出しそうに歪んだ。
 でもここで甘やかすワケにはいかない。
 他の奴等に見つかって、此処から放り出されるくらいならまだマシだろう。

 けど殺されたらどうする?

 それで哀しむのはシャニだ。
 俺はシャニが哀しむところなんて見たくない。

 「さっさと元の場所に戻しに行くぞ」

 俺は言葉を止めない。
 さらにシャニの表情が歪む。
 怒りを湛えていた瞳が、哀しそうなものに変化した。
 仔猫の怪我が酷いことは解っていたけど、俺はそれを敢えて突き放した。

 「でも!」

 「シャニ!!」

 「―― …っ」

 「此処がそいつにとって危険な場所だって解るだろ?
  そいつは俺たちと違って自由なんだから ―― そいつの未来がなくなったら可哀相だろ?」

 外に出したから未来がある、なんて保証は出来ないが ――

 「今日は無理だから明日、な?」

 「うぅ…うー…」

 最後の言葉はなるべくきつい言い方にならない様に気をつけた。
 シャニは握り拳を作ると、乱暴に俺の胸を叩き、泣き声とも唸り声ともつかない声を上げる。
 肩が震えていたから泣いているのは直ぐに解った。けど、俺にはどうしようも出来なくて… ―― 小さく震える肩をギュッと抱き寄せる。
 少し顔を上げたシャニの顔は、やっぱり涙でぐしょぐしょだった。
 俺に出来ることはその涙を拭うことだけだった。。
 シャニは瞳を閉じると、哀しそうに俺の手のひらに擦り寄る。
 自分が無力だと感じているのは、俺だけじゃない。
 シャニも同じように思っている。

 どうしようも出来ない厳しい現実。

 一瞬だけシャニに救われた小さな小さな命。
 仔猫の未来はこの小さな身体に眠る生きる気力だけが知っている。

 (人1人の力なんてちっぽけなモンだな…)

 前々から知っていた事実をこの時は嫌と言うほど痛感した。


 ◆ ◇ ◆


 夜になると、シャニが俺の部屋に仔猫を連れてやってきた。

 「オルガぁ…」

 縋りつくような声音を聞き、手にしていた本を閉じる。
 視線は上げずに、手招きだけをする。
 シャニはべッドに駆け寄り、ぴょんと乗り上げた。
 そしてそのままもそもそと俺の腕の中に納まった。
 それでもシャニは中々寝付けない様子でギュッと俺の服を掴んできた。

 「眠れねぇのか?」

 ちょいちょい、と軽くウエーブのかかった若草色の髪を梳き、問う。

 「んー…眠くない」
 「へえ、珍しいこともあるもんだ。明日雨が降るゼ?」

 けらけらと笑って、茶化すように言うと、シャニがむぅ、と頬を膨らませた。
 河豚のように膨らんだその頬を、軽く指先で突付く。

 「雨はいや…」

 一瞬頭の上に疑問符を飛ばしたが、シャニの腕の中の白い毛玉を見て、その言葉の意味を理解した。
 明日はこいつを返しに行くから、雨が降ったら可哀相だ、とシャニは言いたいらしい。

 「嫌ならちゃんと寝な」

 俺の言葉にシャニは素直に頷き、瞳を閉じた。
 柔らかい髪にそっと口付けて、華奢な身体を強く抱きしめると、俺もシャニと同じように瞳を閉じた。


 ◆ ◇ ◆


 「みぃ…みー」

 今にも消え入りそうなほどか細い鳴き声に沈んでいた意識が浮上する。
 真っ暗じゃどうしようもねぇから、枕元のライトを点けた。

 急な光を瞳は受け入れない。
 何度か瞳を瞬いて、ようやく光に慣れてきた。

 視線を上げれば、白い毛玉が、シャニの胸の上をよたよたと歩いている。
 さっきの鳴き声はこいつだよな。
 仔猫の様子を見ながら、生欠伸を噛み殺した。
 やべぇ…すっげー眠い。
 シャニも爆睡してるし…。
 枕元のデジタル時計は、午前3時すぎを示していた。
 仔猫は首の辺りまで辿り着くと、目の前の唇をぺろっと舐めて白い頬に擦り寄った。

 (この野郎…)

 思わずムッとしてしまう。
 まぁ、猫にヤキモチなんて馬鹿みてェだけど。
 俺は思いっきり嫉妬していた。
 でも、次の瞬間 ――
 そいつの身体がビクンと痙攣してそのまま動かなくなった。

 「え…?」

 目の前で起こった現実を俺の頭は暫く受け入れることが出来なかった。








 なぁ…なんで?








 な ん
      で
        なんで

             な
               んで!

 どうしてなんだよッ!








 「おまえ…馬、鹿っ………シャニが哀しむだろ?」

 小さな鼓動も打つことが出来なくなった仔猫を抱いて、掠れた声で呟く。
 その言葉は、誰の耳にも届くことなく空に消え、どうしようもなく涙が溢れた。








 ああ、また泣いちまうのかな?








 俺はシャニの泣き顔嫌いなんだよな








 ◆ ◇ ◆



 「オルガ…オルガ!」

 翌朝 ―― シャニの今にも泣き出しそうな声と、布団の上からぽかぽか背中を叩かれる衝撃で意識が浮上した。

 「シャニ…はよ…」
 「もうお昼だよ。あ、ねえ、猫が居ない」

 「そっか…」

 「そっか、じゃないよ。どうしよう。何処行っちゃったのかなぁ…」

 不安そうに言葉を続けるシャニを見て、その腕を勢いよく引き寄せた。

 「ぅあ!?ちょ、なにすんだよ!」

 ばふ、とシャニは布団に顔を突っ込んじまって思いっきり文句を言ってくる。
 その胸に顔を埋めてぎゅっと抱きしめた。

 「オルガ…?どうしたの?」

 身動ぎするシャニを逃がさないように力強く抱き込めば、うぅ、と苦しそうな声が聞こえる。
 でも腕の力を緩めることが出来なかった。

 「いたっ、痛い…オルガ!」

 シャニが腕を突っ撥ねてきても、泣きそうな声で叫んでも、離してやれなかったのはどうしてだろう?

 「オルガ………泣いてるの?」
 「なぁに言ってんだよ。なんで俺が泣かなきゃならねぇ…」

 シャニの問いかけに乾いた笑い声を混じらせて応える。

 「ねぇ、猫…何処?」
 「知らねーよ………なんで俺に聞くんだ」

 グッと腕に力が入る。

 「オルガ、どうして泣くの?」
 「泣いてねぇって…何度も言わせんな」

 質問ばかりしてくるシャニの声がひどく耳障りだ。

 「ゴメンね…オルガ」

 なんでシャニが謝るんだ?
 つーか…俺…
 ばっと顔を上げると、アメジストと琥珀色の瞳に涙が滲んでいた。

 ビクと肩が撥ねる。
 ドクドクと自分の鼓動が煩いくらいに聞こえた。








 駄目だ








 駄目だ








 駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ!








 気付かれる








 シャニにわかってしまう








 駄目だって思ってるのに涙は止まらなかった








 俺がもっと大人で、もっと嘘が上手ければ良かったのに ――
 そうすればシャニが哀しむことはなかったかもしれない。

 「ッ………うっ、おまえの腕ん中で逝っちまったよ!」

 哀しませない嘘なら必要な時もあると思った。
 でもこの時の俺は何故か嘘がつけなかった。
 真実を伝えてもシャニは泣かなかった。
 アメジストの瞳は哀しそうに揺らいでいたけど
 でも決して泣かなかった。
 唯いつもは頼りない華奢な腕で俺のことを強く抱きしめて支えてくれた。


 ◆ ◇ ◆


 陽が落ちて、仔猫を埋葬した場所にシャニと手を繋いで行った。
 墓標も何にも無いその場所だった。

 「ねえ、オルガ?」

 「ん?」

 シャニの声に小さく応えると、さわさわと優しい風が頬を撫でる。

 「オルガが見ててくれたからあいつは倖せだったと思うよ?」

 「……」

 「だって1人は哀しいじゃん」

 何も応えない俺にシャニは言葉を続けて繋いでいた手に力を込めた。

 「でもあいつ最後は1人じゃなかったよ」

 「オルガはさ、オレが死ぬ時もずっと見てて ―― その目で見届けてね」

 シャニが最後に泣きそうな顔で笑いながら告げた言葉に、どう応えたのか ―― 俺はもう覚えていない。
 唯その後すぐ俺はシャニの華奢な身体をきつくきつく抱きしめて、その存在を求めた。



 月日が流れた今もあの時のシャニの言葉は俺の胸を刺していて、猫の鳴き声を聞くと、まだ胸の奥が少し熱くて、痛む。



 名前もなかった小さな命を、うたかたの温もりを、俺とシャニは忘れない。



END


2004.05.14