font-size 

  この空の向こう
 人の魂が天に昇っていくというなら
 母さまは、あの青の向こうに居るのだろうか――…。

 短い腕をめいっぱい伸ばして、小さな手のひらを広げ、天に翳す。幼子は晴れ渡った空を仰いでいた。

 母さまはあそこに行っちゃったのか――…。

 迷わずに、真っ直ぐに昇れただろうか。
 いつもすこし淋しそうに微笑む人だったから、あの向こう側ではそんなことがないといいな…。

 螢惑は、目を閉じて、そっと祈った。

 勿論、神にではない。そんなものは信じない。むしろ嫌いだ。
 螢惑は、ただ漠然と、突き抜ける青に祈ったのだ。あの向こう側が、安らかな場所であればいいと――。

「螢惑。お前何やってんだ?」

 いい言葉が見つからなくて、なむなむとうっかり念仏まがいの言葉を唱えていると、ふいに後方から声が掛けられた。
 振り向くと、其処には、自分を拾い、今のところ面倒を見てくれている遊庵がいた。

「ゆんゆん」

 勝手につけたあだ名で呼ぶと‘だからその名前で呼ぶなっつってんだろ!’と、ゲンコツが降って来た。
 螢惑は‘痛いなあ’と文句を言い、頬を膨らせる。遊庵はそれを無視して、螢惑の隣に屈み込んだ。
 そして先程の螢惑を真似るように、天を仰いだ。

「空におもしれーもんでもあったか?」
「………母さま、あそこにいるかなって思った」

 問い掛けると、十分の間を取って、小さな返答が返って来る。
 螢惑は、母の話を出すと、いつもすこし淋しそうだ。
 でも、この話の時だけは、ほんとうに子供らしい反応を見せるのだ。
 遊庵は、その反応が好きで、時折、この小さな体を無性に抱きしめてやりたくなる。
 本人が嫌がるので、なかなか出来ないのだが。

「おお、お前の母ちゃんお天道様になったのか?」

 空にあるもの、柔らかにあたたかに地面を照らすものになったんだな、と遊庵が言えば、螢惑はふるふると首を横に振った。
 その動きに合わせて、二つの三つ編みもふるふると揺れる。

「ううん、母さまはあれに乗って眠ってるの」

 螢惑の小さな手が、すっと綿菓子のような雲を示す。
 子供らしい発想に、遊庵の口許が自然と弧を描く。
 螢惑を引き寄せて、金の髪をくしゃくしゃに撫でてやった。

「そりゃ良いな。気持ち良さそうだ」

 他愛の無い会話。穏やかなときが静かに流れる。
 しかし遊庵は、ふと、一抹の不安を抱いた。

 …螢惑、お前。過去に囚われて、動けなくなりやしねーだろうな――…。

 ずっと天ばかりを求めて、其処から動けない人間にはなって欲しくない。

「…ね、ゆんゆん」

 遊庵が、そんなことを考えていると、天ばかり仰いでいた二対の琥珀が、今度は前を見据えた。
 螢惑は、赤いはちまきを引っ張り、遊庵の名前を呼ぶ。

「…ん。どうした?」
「この空、どこまで続いてる?」
「さぁな。世界の端っこまでかもな」
「そっか」

 問い掛けられたことに、明確な返答は返せない。空が何処まで続いているのかなんて、なんと難しい質問か。答えは誰も知らないだろう。
 でも、螢惑には‘世界の端っこ’が十分に満足な答えだったらしい。

「じゃあ、いつか見に行く」

 ここにはないものを見に行く。螢惑は、前をまっすぐに見据えて、そう言った。
 爛々とかがやく双眸に気付き、遊庵は先程の考えを‘杞憂だったな’と、改めた。

「…そうか。ま・頑張れや」

 小さな背を激励のように叩き、螢惑とおなじように前を見据える。
 心の端っこのほうで、いずれやってくるそのときを、ほんのすこし淋しく思い描きながら――…。


END


親の心子知らず。でも、子供は、知らないうちにいろんなことを学んで、成長し、実はそんなに弱くない。
そんなほっちゃんの成長が喜ばしくもあり、すこし淋しくもあるゆんゆんなのでした。

2005.10.02