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空が落ちた日
神さまがなんとかしてくれるなんて、本当は思えなかった。それでも僕は祈るように願った。縋った。 喪いたくないと、逝かないでほしいと、心が言っていた。 助けて、助けてください… この人は、たった一人のっ 僕の―― …!! さらさら、さらさら、と崩れいく父の体を見て、少女の四肢はガクガクと震えていた。 本人は周りの者たちに気付かれないように、必死で地面を踏み締め、堪えていたつもりだったが、震えは微塵も止まっていなかった。 …な、何これッ …恐い。 いっぽ踏み出し、傍に歩み寄る。 でも、恐くて…… 触れようと伸ばした手は、その体をすり抜けてしまうんじゃないのかと、恐くて 触れることはできなかった。 もう見ることも話すことも触れることもできなくなるというのに―― …。 やだ、いやだ。こんなのは嫌だ…!! こんな こんな 勝手に逝くなんて許さない! 憎しみにも似た気持ちと、あたたかな記憶がせめぎ合い、胸を締めつける。 苦しい。胸が苦しいです、父様…。 「先代‘紅の王’ー!!」 ひっくひっくとせり上がってくる嗚咽を抑えて、少女は叫んだ。 それは、華奢な体には似合わない、必死の叫びだった。 どうか どうか 誰か 誰か 誰でもいいから、この人を助けて―― …。 この人は、たった一人のっ 僕の―― …。 願いは空に響き渡り、消えた。 答えなんて返ってくる筈もなかった。 神さまは、確かに‘見ている’。でも、何もしてくれない。 少女の視界は涙によって、どんどん滲んでいく。刻一刻と近付いてくる別れのときに、怯えた。 「…父と呼んでくれるのか……このオレを」 絶望の淵に沈みかけている少女に、優しい声が掛けられる。少女は勢いよく顔を上げた。 父が綺麗な横顔で‘他の者の子として生きろ’と、優しくもあり、残酷でもある言葉を紡ぐ。 いやだ!嫌です…。 僕はあなたの子供なのに……。 ひとりにしないでっ…。 ぽつぽつと気持ちを吐露すれば、周りの者たちから優しい言葉が掛けられる。 少女の表情 (かお) から怯えが薄れた。 ひとりじゃない…? ふと、そんな風に思えた。 「時人……」 優しく名前を呼ぶ声に 柔らかに見つめる眼差しに また涙が溢れそうになる。 …ああ、僕は知っている。 この人のこんな眼差しを前にも見たことがある―― …。 すっと伸ばされた父の手に、 少女の脳裏には、優しい思い出がよみがえる。 ―― 時人…。 母様が呼ぶ。伯父様が呼ぶ。ひしぎが呼ぶ。 ―― …時人、来なさい。 父様が呼んで、僕を抱き上げてくれる。 僕は、この名前がだいすきだった。 記憶を封じられた後も この名前だけはだいすきだった。 だって、あなたが優しく呼んで、そっと頭を撫でてくれたから―― …。 父様―― …。 ぎゅっと涙を拭って、その手に触れる為、手を伸ばす。 父様、父様―― …。 何か言いたいことがある筈なのに、少女の心には、ただひとつの言葉が湧き出る泉のように溢れていた。 しかし残酷に振り下ろされた刃が、少女に迫っていた。 そしてふたりの手が、触れ合うことは無かった。 父は逝った。 授けてくれた名前を遺し、小さな命を最期の最期まで護り抜いて―― …。 そうして少女の心には空が落ちた。 「ねえ、母様。 どうして時人は‘時人’なの?」 「母様の字をひともじあげたからよ」 「…ふーん、誰がつけたの?」 「父様よ」 「父様が?」 「そうよ、時人。 父様がたくさん、たくさん、考えて、あなたに授けてくださった名前なの。 大事にしてね」 「うん! あのね、母様ッ!」 「なあに?」 時人ね、父様がだいすき。 END |