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ゆりかご
その日――ほたるの機嫌はすこぶる悪かった。 理由は愛用している高下駄の一本歯が折れた為。 普通なら歯の高い下駄を履いて歩くほうが困難だというのに、普段から高い下駄に慣れているほたるにとっては、低いほうが歩き難くて敵わなかった。 新しい下駄を買いに行こうと、城下町に繰り出す。少しの段差や凹凸ですっ転んでしまって、唖然とした。 極め付けに、逢いたくない人物にも出くわした。 (もう踏んだり蹴ったり) ほたるは心の中で舌打ちをし、小さくため息をついた。 「…螢惑。お前何をしているんだ?」 「見てわかんないの?」 転んだ拍子に着物に付着してしまった砂利をパタパタと掃いながら目の前の漢を睨み付ける。 「こけた様に見えたが」 「わかってんなら聞かないで」 馬鹿にしてんの、と、今度は呆れを含んだため息が出る。 目の前に居る漢は、ほたると同じ五曜星で、ほたるの異母兄でもある辰伶。 彼は根が純粋というか、単純というか、率直過ぎた。 でも、その素直さが無様な姿を晒した自分にはひどく気に障る。 下駄の歯が折れたのも、転んだのも、別に辰伶のせいではない。 それが解っていてもなんだか無性に腹が立った。 一刻も早くその場から立ち去ろうと、辰伶に背を向ける。 そして左足首の違和感に気付いた。 (なんか痛いかも…) 試しに足を一歩踏み出してみる。 体重を受けた箇所が悲鳴を上げてズキンと痛んだ。 近くにあった石垣に手を置いて、引っくり返らないようにバランスを取りながら足首を見る。 赤くなっていて、少し腫れていた。 違和感の正体は捻挫。 (もうやっぱ踏んだり蹴ったりじゃん) 頬っぺたを盛大に膨らませたが、こんなところでむくれていても仕方ない。 下駄を購入する店はまだ遠かったので、今日購入するのは諦めるしかなかった。 ほたるは捻った箇所を庇いながら今来たばかりの道を逆戻りする。 「腫れているな」 ひょこひょこと不恰好な歩き方をしていると、ふいに後方から声が掛けられた。 「うるさいなー。ほっといて」 声を掛けた人物は振り返らずともわかる。 ほたるは痛む足首を叱咤して歩くスピードを上げた。 「螢惑、待て。放っておけないから声を掛けたんだ」 でも、相手が尚も食い下がってきたので、すぐに捕まってしまう。 「お節介」 「なんとでも言え」 自分の身体を軽々と抱えて、足首を診る辰伶が、ほたるは少し不満だった。 でも、辰伶が横に並んで、見下ろされるのだけは御免だ、とも思っていたので、抱えられてまだマシだったかもしれない。 「辰伶、力持ちだね」 ふいに出た言葉は、厭味半分・本音半分といったところだ。 男にしては華奢で小柄なほたるは、辰伶の体格が少々羨ましかった。 「それはどうも」 褒め言葉を言っているのに、表情は不満そうに眉を顰めているほたるを見て、辰伶は彼の心情を察するとサラリと流してやった。 「ねぇ、降ろしてよ」 「駄目だ。歩くな。酷くなる」 「歩くなって――オレ帰れないじゃん」 「だから連れて帰ってやる」 「やだ。目立つ」 「わがまま言うな」 「やだってば」 向かい合うように正面から抱っこされて、恥ずかしくない男が居るだろうか。 基本的にほたるはそういうことをさして気にしない性質ではあるが、辰伶に抱きかかえられた状態で、家路に着くというのは流石に遠慮したかった。 「螢惑……否、ほたる」 頑なに嫌々を繰り返すほたるに、辰伶の双眸がすっと細められる。 「……ッ」 静かな声音で告げられた言の葉に、ほたるの瞳は驚きに見開かれた。 「たまには言うことを聞け」 「ずるい」 名前を呼ぶなんて、ずるいと思う。 そんな風に言われたら逆らうことが出来なくなるのに――。 辰伶が心から心配してくれているのはわかっている。 でも、幼き間に培った戒心を上手く解くことが出来ない。 ほたるは遣る瀬無い気持ちになりながら、辰伶の首にそっと腕を回して、しっかりと抱きついた。 急に大人しくなったほたるを、前から後ろに移動させて、背負うと、辰伶は歩き出した。 「早く歳子と歳世に診せなくてはな」 早歩きながらも、気を使ってくれているのか、震動はあまりなく、ゆらゆらと揺れる感覚が眠りを誘う。 広い背中から伝わる優しい温もりは、ほたるの苛々を次第に溶かして、意識をまどろませて行った。 |