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ふわふわ、ふわり
身軽にふわふわ。気侭にふわふわ。お前は透き通った青空を漂う雲のようだ。 灰色の雲が太陽と青空を隠していく。辺りがふっと薄暗くなった。 ひんやりとした風がほたるの頬を撫ぜ、通り過ぎていく。 雨が降りそうだ。 ほたるは‘濡れんのやだなあ’と思い、歩くスピードを少し速めた。 そして歩きながらどんより空を仰ぎ、ふと辰伶の言葉を思い出した。 それは、二人っきりのとき、くすぐるように頬を撫でながら言われたこと。 ――ふわふわふわふわ。お前はまるで雲のようだな…。 ほたるは、僅かに眉を顰めた。 …オレってどんより灰色曇り空ってこと――…? むーと盛大に頬っぺたを膨らませて、ほたるは辰伶が居るだろう官邸に向かった。 * * * * ほたるが眉を顰めている頃、辰伶も縁側に立ち、曇り空を見上げていた。 空気を吸い込むと、雨の匂いがする。 ふと朝方出掛けて行った弟のことを想った。 頭の端で、傘など持って出たワケがないだろうな、とぼんやり思う。 さらにさらに頭の端で、濡れ鼠になるのは嫌だろうな、ともぼんやり思う。 それは心配と少しのお節介。 辰伶は傘を持って、官邸を後にした。 * * * * ゴロゴロと轟く雷雲。ぽつぽつぽつ、と地面を濡らし出す水滴。 不味い。本格的に降り出しそう――…。 ほたるは追いかけてくる雨雲を見上げ、走っていた。前も見ずに10pはあろう高下駄で走るのは危険極まりない。 程無くして、ほたるは何かと衝突した。 「…痛ッ」 少しの痛みに反射的に目を瞑る。ぐらりと傾ぐ体。 あ、転ぶ…。 そう思った瞬間――… ふわりと体が浮き上がった。 「???」 腰に回された腕と、首根っこを掴んでいる手。 ほたるは頭上に疑問符を飛ばした。 首を捩って、後ろを見る。 ほたるの体をしっかりと支えているのは辰伶だった。 「しんれー…?」 「馬鹿者!余所見をしながら走るな!」 きょとんとしているほたるとは対照的に、辰伶の眉間には深く縦皺が刻まれている。 危ないだろうが、と怒鳴られて、耳の奥がキンキンした。 うーと唸りながら耳を押さえ、ほたるが‘うるさいな’という表情をしたので、辰伶は盛大にため息を吐いた。 ほたるを下ろし、落としてしまった傘を拾いに行く。 「どうして此処にいるの…?」 ほたるは、ととと、と辰伶の背を追い掛け、かわいらしく首を傾けた。 「…濡れ鼠になるのは嫌だろう?」 返答と共に、すっと差し掛けられる傘。‘濡れるぞ’と腕を引かれる。 ほたるは琥珀色の瞳を大きく瞬いた後、嬉しそうな笑みを浮かべて、辰伶の腕にぎゅっと抱きついた。 唇が動き 「あ・り・が・と」 と一文字一文字かたどった。 * * * * 灰色の雲は一頻り雨を降らせて、早々に去っていった。 元通りの色彩を取り戻した空を仰ぎ、にわか雨だったようだな、と辰伶は言う。 ほたるは、雨が止んだ途端、道のかたわらに逸れ、しゃがみ込み、きらきら光る露草を指先で突っついていた。 埃が洗い流され、空気が澄んでいる。先程とは違う真っ白な雲が透き通った空を漂っていた。 ふわふわ、ふわり――…。穏やかに、緩やかに流れていく雲。 「お前のようだ」 辰伶は、ふっと穏やかな笑みを浮かべ、優しい声音でそう言った。 その言葉にほたるは驚き、勢いよく顔を上げると、辰伶が見ている空を仰いだ。 「……オレ?」 「ああ、お前だ。気侭に、自由にふわふわ、ふわり、と漂っているからな」 辰伶が喩える優しい音に、ほたるの頬がほんのり紅くなる。 オレ…どんより灰色雲じゃなかったんだ。…良かった――…。 ほたるは、熱い頬をぺちぺちと叩いて、先程の思い違いを改めた。すっと立ち上がり、先に行こうとする辰伶の背にぎゅっと抱き付いた。 「ふわふわ、ふわり?」 「ああ、お前はふわふわ、ふわりだ」 ほたるは肩越しに、問い掛ける。弾んだ声音で。 辰伶は、前に回された細い腕に手を添えて、首を捻り、後ろを見た。 ふわふわの金糸にちゅっとくちづけると、辰伶は再び、ほたるを喩える音を、楽しそうに紡いだのだった。 END |