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眠り姫
その日はとても暑い日だった。幻想的にゆらゆらと陽炎が立ち昇る。ほたるは実務から帰還し、家路を急いでいた。 (…あーあ、今日の死合いはつまんなかったな) 実力も無いくせに血気ばかりが盛んな輩の相手は疲れる。 どうせなら強いやつと一対一で死合いたい。全身の肌が粟立つ様な殺気を感じたい。背筋を走り抜ける高揚感を味わいたい。 求める条件を満たした任務はそうそう舞い込まなかった。 ――つまんない。 ほたるはもう一度心の中で、小さく呟いた。 高下駄の音がふいに鳴り止んだ。ほたるは急に己の体に着く異臭が気になった。 ほたるの着物は鮮血に染まっていた。当然己の血なんてひとつもありはしない。全てが返り血だった。 着物の裾を、鼻先に近付け、くんと嗅ぐ。 血と汗の臭いが不快だ。 (…お風呂に入りたい) ほたるは歩くペースを上げようとした。しかし照り付ける太陽の陽射しが、それを許してくれない。 汗が頬を滴り落ちて行く。幾ら炎の術士だって真夏日の暑さには弱い。炎を扱うイコール暑さに強いというワケでは無いのだ。 家はまだ遠かった。 ジリジリと太陽が身を焼く。歩くと汗を掻く。血の臭いも嫌なのだが、それ以上に汗の不快感が我慢できない。ほたるはうーうーと唸った後、すっと目を瞑り、水の気配を辿った。 カランコロンと高下駄を鳴らして、歩を進めると、涼やかな滝壺に辿り着いた。 水面をじっと見つめて、ほたるは帯を解いた。 着ていたものを、岩場に放り、普段あんなにも嫌っている水場に自ら身を投じた。 ぱしゃ、という水音と共に、金の髪に幾つもの露が散り、煌く。 血の臭いと、汗が引いて、心地良い。 (水は嫌い。でも夏なら水もマシかも…) こびり付いた血を洗い落とし、体を清め終わると、岩場に腰を下ろした。つま先を水に浸す。脱いだ着物を探って、襦袢を軽く羽織り、晴れ渡った空を仰いだ。 水辺に来た為か、先程まで生温かった風も幾らか涼しさを増しているようだ。 濡れた髪を揺らして、頬を撫でていく風 (それ) が心地良かった。 ――ああ、まるで辰伶が傍に居るみたい…。 涼やかな水の気配はほたるの恋しい人の気配に似ていた。無意識に安堵する。 そうして水の波動は、ほたるを眠りの世界に誘った。 ほたるの帰りが遅いことを心配して、辰伶は壬生の外れまでやって来ていた。 水の近くに炎の気配を感じる。螢惑か。辰伶は即座にそう思った。 ずんずんと歩を進めて、鬱蒼とした竹薮を抜けると、辰伶の視界には、涼やかな滝が飛び込んできた。 岩場にふわふわとした金糸を見つけ、歩み寄る。 其処には可愛い異母弟の姿があった。 「こんなところにいたのか」 ほたるの隣に腰を下ろし、金の髪に触れる。 馴染み深い異母兄の気配だからだろうか。ほたるは目覚めない。 どうしようもない隔たりと、確執があった頃は、こんな日が来るとは思っていなかった。 辰伶は遠い場所からほたるを見守ることしか出来なかった。それ以上踏み込むことを恐れていた。唯、ほたるが倖せで居てくれればいい、と、自分勝手に思っていたのだ。 (我ながら愚かな…) 今はこんなにも傍に居ることが出来る。 あどけない寝顔を見つめる辰伶の双眸は、やわらかく、優しい光を放っていた。 しかし、その直後、穏やかな空気は一変した。ほたるの格好に辰伶が目を瞠ったからだ。 際どい箇所は辛うじて襦袢に隠れているとは言え、白い腿や薄い胸が惜し気もなくさらされている光景は、目のやり場に困った。 辰伶は頭が痛そうに額を押さえると、ほたるを抱き起こした。襦袢の衿をきちんと合わせてやる。実務からの帰還と言うこともあって、体を診た。 怪我はしていないな、と安堵して、指先で、つい、と柔らかい頬を撫でる。 ほたるは、もそもそと身動ぎし ‘んー’ と、小さく声を洩らした。 伏せられている瞼に、唇を落とすと、長い睫毛が震えて、琥珀の宝石が、辰伶を映し出した。 「おかえり、螢惑」 「…しんれい」 心地良い目覚めと同時に、恋人の姿を見つけて、眠り姫は大層倖せそうに微笑んだと言う。 |