font-size 

夢魔と現

 眠ることが、強いやつと死合うこと。それと同じくらい好きなほたるは変わった特技を持っていた。
 人はまどろみの中で夢を見る。ただ大抵の人間は、見た夢の内容を目覚めと共に忘れてしまうようだ。
 だが、ほたるは違った。
 見た夢の内容を忘れることは決してなく
 いつもはっきりと覚えていた。

 夢とは、悪夢であればさっさと忘れてしまいたいし、楽しい夢であれば現実でなかったことが少し淋しいものだ。
 ほたる自身は、さして気にしていなかったが、傍から見れば、あまり良い特技とは言えないかもしれない。
 しかし最近は気にしない訳にはいかなくなって来た。
 ここ数日、夢見が悪いのだ。
 しかも不思議なことに、同じ悪夢ばかりを繰り返し見ていた。

「ぅ、ッ……っ!」

 そして今日も同じ夢魔に飛び起きた。

(夢……?)

 冷や汗で身体がじっとりと濡れている。
 寝間着が張り付いて気持ち悪い。
 ほたるは少し長めの前髪を震える手で掴むとぐしゃりと掻き毟った。

 ――誰か、誰か、助けて。

 助けを求める叫びは喉の奥に張り付くだけだ。
 声には生らない。
 そもそもこの壬生で一体誰に助けを求めろと言うのか。
 ほたるが生まれ、育ったこの地で、心を許せる者は、ひとりしか居なかった。
 でも、夢の内容に問題があった。
 あいつには絶対に言えない。

 ――ああ、もう……。あの夢、見たくないな。

 ‘夢を見たくない’ ただその一心で、ほたるは眠ることを止めた。


    ◇ ◆ ◇


 彼の異変に逸早く気付いたのは、辰伶だった。
 いくら同じ五曜星とは言え、毎日顔を合わせている訳ではない。
 久しぶりに顔を突き合わせてみれば、ほたるの普段から白い肌が、輪をかけて白くなっているではないか。
 辰伶はぎょっとした。
 ほたるの顔色は、白いと言うか、蒼白いと言ったほうが適切とも思えた。

「螢惑、お前…――」

「しん、れ…」

 動揺が滲み出たままの声音で声を掛けると、覇気のない双眸が此方を見た。
 異母兄の名を呼ぶ為、ほたるは口を開きかけた。
 そして次の瞬間、視界が揺らいだ。

「け、螢惑ッ!!」

 辰伶が珍しく声を荒げているな…と、思ったのを最後に、ほたるの意識は眠りの世界に堕ちた。


    ◇ ◆ ◇


 覚えている筈がない。
 けど、頭の何処かに、記憶の破片が散らばっている。

「か、あさま…」

「ほたる、逃げなさい」

 幼い自分では感じ取れなかった。
 周囲には複数の殺気。

「決して後ろを振り返っては駄目よ」

 優しい母にそっと背を押され、凛とした声に叱咤されて、屋敷を飛び出した。

 体力の限界を感じても、両の脚がぎしぎしと悲鳴を上げても、倒れるまで只管に駆けた。

 母さまの死を背中に感じたけど
 不思議と涙は出て来なかった。

 湧いたのは ‘哀しみ’ ではなく ‘憎しみ’ 。

 憎いなら、恐いなら、オレを、オレだけを、殺せば良かったんだ。
 どうして母さまが死ななきゃいけなかったの…。

 オレはあの父親 (おとこ) が憎い。殺したい。それを実行できるだけの力が欲しい。

 母さまが死ぬ原因になったあの漢のもうひとりの息子も大嫌い。
 でも、本当はあいつ等とおんなじ血が流れている自分が一番嫌いだと思った。

 ねぇ、辰伶…。オレの中は、こんなにも醜い感情で溢れ返っているよ。
 オレはお前を殺したいんだよ。
 この殺意を知ったらお前はどうする?
 それでもオレを見てくれる?
 変わらず ‘好きだ’ って言ってくれるの。

 ずっと聞きたくても聞けなかった問い掛けが、夢の中では簡単に言えた。
 もちろん、答えは返ってくる筈もなかった。


    ◇ ◆ ◇


 ――ああ、頭がすごく痛い。
   またあの夢見ちゃったし…。
   だから眠るの嫌だったのに。
   あれ?でも、なんだろう…。
   今日はやけにあったかい。

 不安と恐怖に飛び起きるワケではなく、ふんわりと意識が浮上して、ほたるは薄っすらと瞼を開いた。
 視界が開けて、最初に見えたものは、心配そうな表情をしている異母兄の姿だった。

「螢惑…」

「あれ?」

 見覚えのある天井に軽く首を傾げる。
 ほたるが横たわっていたのは辰伶の自室だった。

「…ッ! 『あれ?』 ではないわ!キサマは何を考えているのだ!」

 辰伶は心配すると、いつもほたるを怒鳴りつける。
 今回もお約束のように怒鳴られた。

「ぅッ……辰伶、でかい声出さないで」

 心配してくれるのは嬉しい。辰伶は心配性過ぎて、時折うっとうしくもあるが、今回は素直に嬉しいと感じた。
 しかしほたるは、未だ本調子ではないのだ。
 辰伶の怒声が頭に響く。
 ずきずきと痛む額を手のひらで押さえた。

「あ……すまない」

「べつに謝んなくてもいいよ」

 ハッと口を押さえ、あっさりと詫びを入れてくる辰伶が、妙におかしい。
 ほたるは微かに口許を緩めて、静かに微笑した。
 そしてふと気付いた。
 自分を抱きしめている両の腕に――。

「オレ……なんでお前に抱きしめられてんの?」

 辰伶の腕を見つめて、きょとんとした後、ほたるは首を傾げた。

「やかましい。キサマが何度も俺の名前を呼ぶからだ」

 辰伶は照れくさそうに、ほたるから視線を外すと、額をぺしりと叩く。

「何度も?」

 叩かれた箇所を擦りながら辰伶の台詞の一部を反芻する。
 たしかに夢の中で辰伶に話し掛けていた。けれど、実際寝言になっているなんて思わなかったし、そんな事実恥ずかし過ぎ…と、ほたるは思った。
 頬に熱が集まるのを感じて、慌てて、目の前のたくましい胸に顔を押し付ける。
 ほたるの柔らかい髪が辰伶の首筋をくすぐった。

 やだ。
 きっと顔が赤い。
 こんな姿、辰伶に見られたくない。

 押し付けられた顔と、赤みを帯びた耳を見て、辰伶はほたるの心情をなんとなく察した。
 そして次々と溢れ出てくる感情に、戸惑っているほたるを、愛しいと思った。

「何故眠らなかった?」

 そっと抱きしめて、ふわふわの金糸を指で梳く。
 そして尤もな疑問を投げ掛けた。
 ほたるを、歳子・歳世に診て貰った時に出された病名は ‘極度の寝不足’ という信じられないものだった。
 あんなに眠ることを好む螢惑が――?と、辰伶は己の耳を疑った。
 辰伶の質問にほたるの視線が彷徨う。唇をぎゅっと噤んで、白く、小さな手が、辰伶の着物を握り締めていた。

 ――言い難いことなのだろうか?

 ほたるの様子に、無理に話さなくてもいいが…という言葉が、辰伶の喉まで出掛かる。それを遮るようにほたるは口を開いた。

「なんかずっと恐い夢、見てた」

「夢…?」

 ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ出したほたるの背を子供をあやす様に撫でる。

「見たくないけど見ちゃうからどうしていいかわかんなくて…眠るの止めたら見ないかなって思って…。それで寝るのを止めたんだよ」

 ほたるの話は、いつも文法が目茶苦茶だ。
 だが、今は、その拙い言葉が、この小さな弟を護ってやらなくては――と、辰伶を突き動かす。
 ほたるを此処まで追いつめてしまう夢とは一体どんなものだろう…と、少し、否、とても気になったが、根掘り葉掘り聞くものじゃないな、と辰伶は考えを改めた。
 無理に聞き出しても何もならない。
 ほたるを苦しめるだけだ。
 己に何が出来るだろう…と考え、精一杯の優しさで華奢な身体を抱きしめた。
 ほたるは ‘ん…’ と声を洩らすと、小さく身動ぎして、でも、嫌がるような素振りは見せなかった。
 抱きしめられ、あたたかい体温に、安堵する。
 目頭がじんわり熱くなった。

「しんれぇ…」

 琥珀色の双眸が揺れ、辰伶の姿を映し出す。

「……螢惑?」

 先程よりは、赤みの戻ってきた頬に、ぽろぽろと数滴の雫がつたわっている様を目の当たりにして、辰伶は一瞬言葉を失った。

「オレ………いつかお前のこと殺しちゃうかもしんない…」

 そして吐露された不安。
 恐い。途轍もなく恐いのだ。
 憎しみに駆られて何をするかわからない自分が――。
 普段とは打って変わって、弱々しい光を宿す瞳に映るのは、恐怖、不安、絶望といった負の感情。
 その瞳を、真っ直ぐに見つめ返して、辰伶は口を開いた。

「螢惑。俺はキサマには負けん。簡単に殺されたりもせん。だから何も気に病むことはない…」

 ひとつ、ひとつ、丁寧に告げて、心に浸透する言葉。いつもと何ひとつ変わらない辰伶の口調。それはほたるの不安を溶かした。
 ‘もう泣くな’ と、最後に優しく囁いて、辰伶はほたるの涙を拭った。

「オレもお前には負けないよ?」

 すん、と鼻を鳴らして、辰伶の言葉にほたるは反論した。
 幼い仕草で、ぷぅ…と頬を膨らませるほたるを見て、辰伶は声を立てて笑う。
 そしてそれなら尚の事何の問題も無いだろう、と応えた。

「うん…そうだね」

 琥珀色の双眸から次第に恐怖が薄れていく。
 いつも通りの輝きを取り戻した瞳を見て、辰伶は心の底から安堵した。

「もう少し寝ていろ」

 ほたるの肩まで布団を引き寄せ、眠るように促す。

「ん……おやすみ、辰伶」


 いつの間にか消え去った負の感情。悪夢はもう見なかった。



END


2005.05.27