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不器用な優しさ
可憐な美しさを持ち、誰よりも彼に愛された者は、この地に還った。高潔な志を持ち、誰よりも彼が信頼を寄せていた友は、この地を去った。 そうして彼の心には、癒されない傷が、塞がることの無い大きな空洞が出来た。 それを埋めることが出来るのならば、と幾度も思い、その度に私では彼等の代わりになどなれはしないのだ、と現実を突きつけられて来た。 私は、こんなにも無力だ。 ひしぎは、冷たい実験机の上に突っ伏して、まどろんでいた。 「…ひしぎ」 そっと肩を揺さぶられ、ふっと意識が浮上する。驚いたように、机から顔が上げられた。 「……」 うたた寝なんて過去の記憶を辿っても滅多にあることでは無い。ひしぎは、動揺し、何度も瞳を瞬いた。まだ少し意識がはっきりしないので、額を押さえ、緩く首を振る。 そして己を上から見下ろしている吹雪を見上げた。 「…ああ、すみません。何か用ですか、吹雪」 椅子に座ったまま用件を問い掛ける。吹雪は、一瞬面食らったような表情になった。 「…お前がオレを呼んだのだろう」 そして訝しげに眉を顰め、淡々とそう告げた。 「ああ、そうでした。すみません…」 寝起きのせいなのか、頭がきちんと働かない。ひしぎは吹雪にもう一度謝り、立ち上がった。そうだ、今日は自分が彼を研究室に呼び出したのだ。 机の端に置いていた書類に手を伸ばし、吹雪に手渡そうとする。しかし吹雪の手は、書類をすり抜け、ひしぎの頬に触れた。 「顔色が悪いな」 もともと白い肌だが、今日は輪をかけて白い、というより蒼白い。吹雪の口から発せられた言葉を聞き、ひしぎは僅かに瞠目した。 「もともとですよ」 しかしすぐにすっと目を伏せ、さらりとそんな返答を返すのだ。自分の体調を顧みないひしぎに、吹雪は密かに胸を痛めた。 「お前、寝ているのか?」 言葉を続ける吹雪に、つい今しがた眠っていたのを見たじゃないですか、とひしぎは言いそうになった。 「寝ていますよ」 「それは仮眠ではなく十分な睡眠か?」 「……まあ、睡眠と呼ぶには程遠いかもしれませんが」 気のせいではない。吹雪の声のトーンがどんどん下がっている。自分を咎めるような言葉を続ける吹雪に、ひしぎは困惑した。 「……吹雪、何を怒っているんです?」 「怒ってなどおらん」 じゃあ何故、とひしぎの唇がかたどり掛ける。その瞬間、吹雪はひしぎの腕を引いた。 突然の出来事。ひしぎは呆気に取られた。 彼らしくもない乱暴な足取りで、引き摺られるように居城の奥に連れて行かれた。そして寝室として使っている部屋に放り込まれる。 ぴしゃりと閉じられる妻戸。 「寝ろ」 そして戸一枚を隔てて告げられた短すぎる言葉。 「な、なにを…」 ひしぎは、妻戸に手を掛けた。しかしビクともしない。 大人しく仮眠を取るまで、吹雪は、ひしぎをこの部屋から出さない気らしい。 「…私はっ」 今は、時間が幾らあっても惜しいくらいだ。眠る時間など欲しくない。 一刻も早く‘死の病’の治療法を見つけないと――! 吹雪だってわかっている筈だ。 「いいから寝ろ、少しでも寝てくれ」 しかし友の口から返ってくる言葉は、頑なに‘休め’という意味を持つものばかりだった。 やはり戸は開きそうもない。白夜を使用すれば開くだろうが、それは妻戸自体を破壊するということだ。下手すると、向こう側に居る吹雪も吹き飛ばしかねない。流石に其処までしようとは思わなかった。 ひしぎはその場に座り込み、妻戸に背を預けた。 「……ひしぎ…」 寝室の畳をぼんやりと見つめ、小さく息を吐く。戸の向こう側から吹雪が、己の名を呼んだ。 「なんです?」 問い返すと、馴染み深い低音が、怒りとも哀しみとも違う感情を滲ませて、ひしぎの耳に届く。 「お前の代わりなど何処にも居ない」 村正と、姫時の代わりが何処にも居ないのと同じように―― 吹雪の言葉に、ひしぎは瞠目し、思わず立ち上がった。体を反転させ、背中を預けていた戸に手をつく。 「忘れるな」 村正と姫時の代わりなど誰にも出来はしない。そしてお前の代わりも誰にも出来ない。お前を失ってもオレは哀しい―― 「……吹雪」 吹雪の不器用すぎる優しさがひしぎの心に届く。 ひしぎは額を戸に当てた。この戸さえなければ、吹雪の背中に縋り付いてしまったかもしれない。 隔たれたほんの少しの距離が、恨めしいようで、ありがたかった。 「…吹雪」 「なんだ」 「…寝ますね」 「ああ…」 「あなたも休んでください」 「オレはきちんと休息は取っているぞ」 最後に‘お前と違ってな’と、付け加えられそうな、意地悪な返答を返し、吹雪は踵を返した。 静かに遠ざかる足音を聞き、ひしぎは呟いた。 「…吹雪、ありがとう」 あなたの不器用な優しさに、いつも救われている―― END
吹雪←ひしぎに見せかけて、実は吹雪→ひしぎかもしれないお話 (わかりにくいよ) |