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抜け殻
数日前から体調が悪いと思っていた。 でも、然して気にするほどのことではないだろう、と。 連日の寝不足でも祟っているのだろう、とひしぎは自分の体調を顧みなかった。 ゴホ、ゴホ…―― 居城、兼、研究室にて、いつものように研究データを纏めていたときのこと、彼は突如として激しく咳き込み、その場に膝を着いた。 止まらない咳に、ひしぎは咄嗟に手のひらで口許を覆った。 吐き出されるばかりで肺に空気が取り込めない。 苦しい。 これは一体…―― 一瞬脳裏に暗い考えが過ぎったが、咳が酷くて、その考えはすぐに霧散した。 何度も何度も咳き込み、それが漸く止まると、口の中に広がる鉄の味と、手のひらが濡れていることに気が付いた。 え…?―― 目の前が真っ暗になる。 手のひらから零れて、床に滴り落ちるどす黒い赤。 不純物でも混じっていそうな濁った色の血が瞳に映っている。 これは…―― 心当たり等ひとつしかなかった。 造られしものたちを蝕む、死の病。 自分は造られたもの、終に欠陥まで現れてしまった…―― 壬生一族は神の一族だ。 あらゆる生物に勝る力と頭脳を持ち、それを誇る。 偽者でも本物でも完璧でなくてはならない。 欠陥なんて在ってはならないのだ。 床にだんだんと広がっていく血の水溜まりを瞳に映し、ひしぎは、今迄培って来たものが、足元から崩れ落ちていく音を聞いた。 例え、造られたものでも‘壬生一族’と名乗る以上、欠陥なんて在ってはならない。 でも、自分はとうとう欠陥品になってしまった。 立ち上がることすら出来なくて、ひしぎはその場に座り込んでいた。 程無くして、彼の居城に吹雪がやって来た。 へたり込み、荒い呼吸を繰り返すひしぎと、床に撒き散らされた血痕に、普段冷静な表情しか見せない吹雪の顔色が変わった。 「…吹雪」 ああ、私はこの人を置いて逝くことになるのだろうか…―― 対等の立場に居れなくなってしまったことが哀しいのか、悔しいのか、よくわからない。 唯、出来れば彼とはずっと対等な立場で、彼を支えたいと思っていた。 叶わなくなってしまった願いが、暗い思考に拍車を掛ける。 暗い。この部屋はこんなにも暗かっただろうか…―― 「……ひしぎ、お前…!」 吹雪は駆け寄り、項垂れているひしぎの肩を掴んだ。虚ろな瞳に吹雪の姿が映し出される。 親友の身に何が起きたのか、吹雪は瞬時に悟った。 「ひしぎ…」 痛ましく眉根を寄せて、吹雪が自分の名を呼ぶ。 何故、吹雪がこんな表情をするのだろうか…―― このとき既に、ひしぎは他人の哀しみを気に掛けることすら出来なくなっていた。 血が着くのも構わず己を抱きしめてくる両の腕に、身を委ねる。 何故だろう、真っ暗で何も見えない…―― 虚ろな瞳は、最早、親友の姿すら映せなくなっていた。 そうしてひしぎは抜け殻になった。 |