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どうでもいいひと
何も知りたくない。 あんなにも純粋な兄を利用している漢のことなんて――。 任務からの帰還後、螢惑は陰陽殿に来ていた。 「…一番に報告に来るとは珍しいな」 何の気配も感じなかった空間から突然声が掛けられる。 最初に五曜星・螢惑、と呼ばれ、次に抑揚のない声で、己の行動の意外性を指摘された。 声を掛けたのは太四老の長を務める吹雪だった。 「べつに。辰伶がうるさいからさっさと済ましたかっただけ」 …ああ、嫌だ。逢いたくない奴に逢ってしまった。螢惑は、僅かに眉を顰めた。 だが、部屋に行く手間が省けた、と思えばいいか、と自分の良い様に取り、吹雪に報告書を叩き付ける。 吹雪は、上司に対して有るまじきぞんざいな行動をとる螢惑を、特に咎めたりしない。 咎めても無駄だと思っているのか、それとも彼の異母兄である辰伶に言ったほうが効果があると思っているのか、どちらかはわからない。 まあ、そんなことは螢惑にはどうでも良いし、どちらでも良いのだが。 ただこの漢とはあまり一緒に居たくない、と思う。なんの感情も読み取れない闇色の瞳が恐い。 螢惑は、その場を後にしようと、早々に踵を返した。 身を翻すと、三つ編みに結わえている金色の髪が、ふわり、となびいた するとその金色が放つ煌めきに、吹雪の双眸が眇められた。 それは、とても眩しいものでも見るかのように。 それは、まるで何かを懐かしむかのように。 何の感情も湛えていなかった漆黒の瞳が、確かに、揺らいだ。 ――今のはいったい? 螢惑は、驚き、不思議そうに、白髪の漢を仰ぎ見た。 普段の冷たい瞳の色とはまったく違う。痛みと哀しみを色濃く湛えた瞳に、ひどく困惑する。 「…なに?」 射殺すような視線と、動揺を押し殺した声で、自分を見ている真意を問い掛けたが、吹雪は答えなかった。 螢惑は緊張し、無意識の内に手のひらをぎゅっと握り締める。 吹雪は静かに目を伏せることで、己を警戒し、殺気に近いものを纏い出した螢惑から視線を外した。 沈黙を‘もう行け’と解釈して、螢惑は再び歩き出す。 吹雪の気配を背中に感じる間は、普通の歩幅で、ゆっくりと。気配を感じなくなったら早歩きに。カッカッカッと高下駄が鳴った。 これではまるで、何かに追い掛けられて、逃げているようだ。 こんな自分は嫌だ。螢惑は一瞬、激しい自己嫌悪に陥ったが、歩くスピードが緩むことは無かった。 ――辰伶とは似ても似つかんな。 螢惑の背が完璧に見えなくなり、吹雪は心の中で呟いた。 己に対する態度、性格、背格好、全てが辰伶とは異なる螢惑。なんと似てない異母兄弟か。 彼等は、半分しか血の繋がりが無いのだから当然といえば、当然かもしれないが。 其処まで考えて、吹雪は、己がよく知るもう一組の兄弟を思い出した。 (…村正と姫時はよく似ていたな) すっと目を閉じ、螢惑が放つ金色の煌めきに、動揺を隠せない己を自嘲する。 あの色は、高潔、且つ、穏やかな雰囲気と、ひだまりのような優しさを持ち合わせていたふたりが纏っていたものと同じもの。 吹雪にとっては、懐かしくもあり、瞳に映すには、未だに痛ましい色だった。 だが、 ――感傷になど耽っている暇はない。 次に瞼が開いたとき、漆黒の瞳は冷たい常の色を取り戻していた。 螢惑は、陰陽殿を脱し、ふう、と息をついた。あの宮殿は息が詰まる。空を仰いで、大きく深呼吸した。 「螢惑」 新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込むと、聞き慣れた声が耳に届く。 声がしたほうに視線を動かすと、、其処には、先程の漢とおなじ色彩の髪を持つ異母兄が立っていた。 「あれ、辰伶?」 どうやら自分を待っていたらしい辰伶に、驚き、嬉しさに口許が緩む。 駆け寄ると、遅いから心配したぞ、と言われ、そっと髪を撫ぜられた。 螢惑は、その瞬間、ふと、あることに思い当たった。先程、吹雪は自分の髪を見ていた気がすると――。 三つ編みを手にとり、じぃと眺める。 「辰伶、オレの髪、変じゃないよね?」 「いや、いつも通りだが」 いつも通り可愛い、と不意打ちで囁いてきた辰伶に、螢惑は顔からぼひゅっと湯気が出そうになった。 螢惑の反応に、辰伶は、くすり、と笑みを浮かべると、その三つ編みにそっとくちづけた。 優しい接吻に、螢惑の心の中にはあたたかいものが満ちていく。そしてそれと共に、憎みが凝る。 あの漢は、この優しい兄を利用しているのだ。 先程、あの漢の琴線に微かに触れ、癒えようの無い痛みを感じ取ったが、もう忘れてしまおう。 あいつは自分の中でどうでもいい存在でいい。 どうでもいいひとで居てくれないと困るのだ。 |